東京高等裁判所 昭和60年(う)1556号 判決 1986年2月27日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人布留川輝夫が差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官が差し出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
所論は、要するに、本件鑑定の資料に供された被告人の尿は違法に採取されたものであり、その鑑定結果を記載した鑑定書には証拠能力がなく、従つて、本件覚せい剤使用の事実につき補強証拠を欠くことになるから、被告人を無罪とすべきであるのに、原判決が、警察官の被告人に対する職務質問、警察署への任意同行及び被告人からの尿の任意提出の手続にいずれも違法な点はなく、前記鑑定書の証拠能力はこれを肯認できるとして有罪の言渡をしたのは、警察官職務執行法二条一項、二項の解釈適用を誤り、かつ、訴訟手続が法令(刑訴法三一九条二項)に違反したものであつて、それが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
そこで、原審記録を精査して、所論の当否を検討するに、関係証拠によれば、本件鑑定の資料に供された被告人の尿が採取されるに至つた経過は、次のとおりと認められる。すなわち、本件捜査の発端は、警視庁下谷警察署勤務の警察官である下平巡査部長及び小林巡査の両名が、昭和六〇年三月三一日午後九時三〇分ころ、原判示谷中墓地入口近くにパトカーを停めて待機中、友人二名を同乗させ普通乗用自動車を運転して同墓地内に入つて来た被告人に不審を抱き、これに対し職務質問を開始したことにあるが、同巡査らは、被告人に対してまず自動車運転免許証の呈示を求め、これにより犯歴照会を行つたところ、被告人には覚せい剤取締法違反の犯歴二回のあることが判明したうえ(被告人は、少年時覚せい剤取締法違反の非行により保護観察の処分を受けているほか、昭和五四年四月二六日同法違反の罪により懲役一年二月、三年間保護観察付執行猶予の判決言渡を受けている。)、その態度に落ち着きがなく、顔色が悪く、目の焦点が定まらず、唇が乾いているように見えたので、覚せい剤の使用を疑い、所持品の呈示と注射痕の有無を調べるため腕や足を見せるよう求めたところ、被告人はポケットから財布を取り出して見せたものの、腕を見せることには応じなかつた。同巡査らは引き続き腕や車を見分させてくれるよう要求するとともに、パトカー一台の応援を求め、駆けつけた警察官二名(梅津巡査長及び山田巡査)とともになお被告人に対する説得を続けたが注射痕の有無を確認することはできず、同日午後一二時ころに至り、更に同署保安係の警察官三名(末吉警部補、斉藤巡査部長及び米田巡査)が応援のため現場に到着した。ところが、そのころからようやく被告人の態度が変わり、米田巡査が腕を見せるように求めると、被告人は素直に自分で上衣の袖をまくつて腕を見せ、見ると左腕肘関節内側の血管上に新しい注射痕が認められた。次に、被告人の運転してきた自動車の車内を見せるよう要求すると、これも拒否するようなことはなく、更に警察署への同行を求められるとこれにも素直に応じ、翌四月一日午前〇時一〇分ころ被告人は警察官の運転する車に同乗して下谷警察署に着いた。被告人は同署二階の取調室に上げられ、同日午前〇時三〇分ころから半田巡査が中心となつてその取調を開始したが、ほどなく被告人は、三月三一日夕刻自宅トイレ内で覚せい剤を注射して使用した事実を自供した。そこで、同巡査が尿の提出を求めると、被告人は当初これを渋つていたものの、まもなく尿を出してもよいとの意向を示したため、警察官とともに何度か採尿のためトイレに向かつたが、そのたびに「まだ出ない」などと言つて再び取調室に戻るといつたことを繰り返した。この間被告人は、警察官に勧められるまま缶ジュース、コーヒー、お茶、水などを次々と飲んで多量の水分を摂取したが、口先とは裏腹に尿を容易に出さないため、四月一日午前四時ころに至り、米田巡査は被告人に自動車のキイを渡して尿が出るまで車内で休んでいるよう申し向けた。そこで被告人は、同警察署の駐車場に置いてある車に戻り、エンジンをかけて暖をとりながら車内で一人仮眠していたが、そのうち排尿を我慢しきれなくなり、警察官に連絡したうえ、同日午前六時二〇分ころ同署二階のトイレで排尿し、その一部を容器に入れて提出した。大要以上のような経過で尿を提出するに至つたことを認めることができ、被告人の原審公判廷における供述中これに反する部分は措信できない。右にみたとおり、警察官に尿の提出を求められて以降、被告人が明確にこれを拒否したようなことはなく、基本的にはむしろほぼ一貫して尿を任意に提出する意向を示していたものと認められるのであり、しかも最終的には、取調室から自分の車に戻り、一人車内にあつていつでも適当な場所に排尿しようと思えば排尿できる状況のもとに置かれたのに、敢えて自ら警察官に申し出て尿を提出したのであるから、それが任意になされたものであることは明らかというべきである。なるほど、警察署における取調が開始されてから尿を提出するまで六時間近くも経過しており、被告人が内心では尿の提出をできるだけ先きに遷延させようと意図していたことは疑いないところとはいえ、既に述べたように決して尿の提出を拒否していたわけではなく、もとより、担当警察官において採尿の目的を遂げるため、任意捜査の方法として許容される限界を超え、あるいは被告人が取調室から退去する自由を奪い、あるいは不当な利益誘導を行うなど、被告人の自由意思を制圧するような違法な行為があつたことも証拠上認め難いのである。ところで、被告人が尿を提出するに先立ち、結果的には大量の水分を摂取していることは所論のとおりであるが、それは被告人が尿を出す素振を示したため、早く排尿させるべく警察官がジュースやコーヒー等を次々と勧めたまでのことで、そこに格別強制の要素を発見することができず、真意に基づく承諾により摂取に応じたものといわざるを得ない。もつとも、承諾のうえとはいえ、警察官がこのように摂取を勧めた水分の総量はいささか多きに過ぎた感を禁じえないが、いまだ被告人の健康を害するほどのものではなかつたし、何よりも被告人が断わろうと思えば断わることができる状況のもとで摂取を勧めたのであるから、それが所論のように拷問に当たるとは到底考えられないことはもとより、社会通念上相当と認められる限度を著しく逸脱しているとまでいうことができず、したがつて、このような事態が介在したからといつて、任意になされた尿提出の任意性を失わせ、その適法性に影響を及ぼすべきものということはできない。
ところで、所論は、谷中墓地における警察官の被告人に対する職務質問、下谷警察署への被告人の連行、そして下谷警察署における深夜の取調など、どれをとつても任意捜査の限度を超えた違法なものであり、かかる違法行為の連続の結果として尿の提出がなされたものであるところ、右採尿手続の適法性の有無を判断するに当たつては、尿の提出自体に直接関連する警察官の処置のみならず、これに先行する一連の行為を総合的に考察しなければならないのであつて、令状主義の精神に照らし先行手続に違法性が認められるとすると、採尿手続もまた違法に帰することを免れないという。しかしながら、所論にかんがみ検討してみても、尿の提出に先行する被告人に対する職務質問、下谷警察署への任意同行及び同警察署における被告人の取調という一連の手続のいずれにも違法があるとまでは認められない。すなわち、被告人の容疑は覚せい剤の自己使用であるところ、前認定のとおり、警察官の職務質問の初期の段階からその嫌疑は極めて濃厚な場合であつて、右事案の性質上、速やかに被告人から事情を聴取する必要が認められることなどの具体的状況に徴し、所論指摘の警察官らの行為が社会通念上やむを得なかつたと認められる限度を逸脱しているとまでは認め難いのである。原判決が弁護人の主張に対する判断の項において認定説示するところは、一部にわかに左袒し難い部分も存するが(すなわち、原判決は、原判示谷中墓地において、被告人が帰らして欲しいと言つたのに対し、警察官らが、協力してくれれば帰らせてやる、などと応答した旨認定判示し、また、下谷警察署取調室においても、被告人が帰らせて欲しいと訴えたのに対し、警察官は、その都度、尿を出せばいつでも帰らせてやる、とか、尿を出してから帰ることにしろ、などと言つた旨認定判示している。しかしながら、関係証拠によれば、原判示谷中墓地において、被告人が帰らして欲しい旨言つたのに対し、警察官らは単に腕を見せるように求め続けただけで、腕を見せれば帰してやるとかそれと同趣旨の言葉を申し向けたようなことはなかつたものと認められるし、原判示下谷警察署取調室においては、被告人から帰らせて欲しい旨の訴えはなかつたものと認められる。)、警察官の違法な捜査はなかつたとした原判断の結論は正当として是認できる。してみると、適法に押収された被告人の尿についての鑑定結果を記載した本件鑑定書がその証拠能力を否定されるいわれはなく、これを原判示事実の認定に供したうえ有罪の言渡をした原判決に所論のような訴訟手続の法令違反は認められない。その他、多岐にわたる所論にかんがみ、更にこれを逐一検討してみても、原判決に所論のような判決に影響を及ぼすべき法令解釈適用の誤り、訴訟手続の法令違反等の過誤は認められず、論旨は理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官寺澤 榮 裁判官片岡 聰 裁判官小圷眞史)